昭和四十三年十二月五日 夜の御理解
御教えに「ひとりひそかに信心せよ。信心に連れがいると死ぬる時にも連れがいろうがと。ひとりひそかに信心せよ」と。
今日突然、あのぉ久留米の東梅里さんという庭師、この方は、もう九州きっての、まぁ名人だそうですが。話は随分前から聞いてたけれども、お会いしたのは今日が初めてだった。なかなか気骨のありそうな風格、真っ白いはいを生やした、成程庭師の親分といったような感じでしたが。この庭を一遍通り回られて、この全部、自分に、がやり直してやろうと。折角の事なら後に後悔を残さないように、そういう名人の手に掛けて、その庭をやり直してもらおうという事で大体話は決めたんですけれども。正月からかかってもらうと、まあ言う事で、一遍通りこの内から外から庭を見られましたが、外に出てからでした。このわぎれの行き当たりにある大きな石を見てからですね、石も大きいだけでは値打ちはない。大きいだけが値打ちじゃない。と言うような事を言うておられましたがね、この石でもね、この一つで見られる石っていうのは、実にその少ないという事です。
例えば一つの石を置いても、そこに根占に小さい植木をもっていくとか、又違う石をそこに寄せなければ見られない。けれどもやっぱり石というのは、なあにも置かない。只石だけ。その一つだけを例えば置いてあれば、もう草もいらなければ木もいらない。それで結構見て楽しいという石がやっぱあるというのですよね。
ですから、私、あの、ひとりひそかに信心せよというのはねえ、もう本当に、あの何て言うですか、その人ひとりだけで信心の喜びというものが頂けれる。そういうような、私は事ではなかろうかという風に、私は思わしてもらった、ね。
大体人間というものは、生まれてくる時にもやはりひとり。死んでゆく時にもひとり。その途中だけ連れがいると言うたら実はおかしい。相互扶助といったような事を言うけれども、そういうような事は要らない。自分だけでいい。まあ信心の最高の私、境地は、そういうもんではなかろうかと、こう思う。ひとりひそかに信心させてもらう、ね、それでいて寂しさもなからなければ困った事もない、ね。それでいて遠くから見ても、まあ素晴らしいと言うのです。
「信心に連れがいると死ぬる時にも連れがいろうが」と、教祖様はおっしゃっておられる。信心に連れはいらんという事は、ね、まあ言うなら完璧な信心と、もうそれひとつだけで十分と。ところが、その、私共の場合、完璧なという事はなかなかですけれども、この頃から頂くように丸、九の字に点を打った丸ですよね。結局自分の欠点なら自分の欠点欠陥というものを本当に見極めて、それに本気に取組んで完璧を目指すというか、それを他のものから借りてこなくてもすむ私にならせて頂かなければならんと。
私共、時々本当になぁにもいらないという時がある。そのなぁにもいらないという時には、もう全ての物に恵まれておる時なんだ、実を言うたら。「欲しいとも思わぬ、雨垂れの音を聞く」である。そういう時が、やっぱり私共も時々ある。ところが、その、私共は誰がおらんと困る、かれがおらんと困る。何がなからんと出来ないと。というようにあるんですけれども、本当言うたらやはり死ぬる時、又は生まれてくる時の事を思うたら途中でもひとりでおって、所謂、その何んの不平も不足もないというような徳を受てゆくとゆう事。それは雨垂れの音を聞きながら欲しいとも思わんという境地である。そういう境地を開かしてもらうと。
私はひとりひそかに信心せよという意味が分からなかったけれども、生まれてくる時もひとり、死ぬる時もひとり。信心に連れがいりよると死ぬる時にも連れがいろうがと、こう言う。皆んなが逃げておるぞと。皆んなが逃げておる。だから、そういう逃げておるものを求めずしてですね、自分自身の心の中に何にもいらないという程に恵まれるおかげ。恵まれておるおかげ。痛くもなからなければ痒くもない。というてひもじい事もない、暑い事も寒い事も感じんですむというようなおかげ。そういうおかげは、どういう事から生まれてくるかというとです、いわゆる和賀心である。和らぎ賀ぶ心である。ところが実際、それを誰しもが受けるという事の為には、なかなか、その賀心というのは難しいけれども、同じ丸い心でもです、田主丸の丸の字であってから、九の字に点を打つ信心が出来れば、やはり時折でも何にもいらんというような境地が味わえるのではなかろうか。そしてそういう味わいを目指してお互いが信心をさせて頂く。そういう信心の喜びを味わえたら何もいらんという程に、全てに恵まれるようなおかげが頂けるという事を、私は思うですね。どうぞ。